永井健嗣氏、とフルネームで呼んでピンと来ない卒業生諸氏も、「スタジオ楽音のチーフ」と言えば知らない人はいない。特に30期台後半から50期台前半の世代は大変にお世話になった。
その「チーフ」こと永井氏が昨日亡くなった。―—ということを、故人のTwitter経由で知った。ご家族が生前の意思を受けて、お知らせくださったようだ。
ちょうど、「スタジオを閉める」というアナウンスがあった直後に、パルテノン多摩で連盟のコンテストがあり、そこに応援に来てくださったチーフが「実は癌だと分かり治療に専念することになった」と打ち明けてくださった。最近では、あれだけ頻繁に浮上するチーフのツイートが途切れ、ずいぶんお悪いのだろうかと、心配している矢先のことだった。SNSにも「気配」というものがあることを知る。
Twitterを拝見する限り、たいへんに前向きに治療にあたっていらして、おそらくは抗癌剤点滴でもしていたのか、短期の入院に際しては「お泊まり会だ」とおどけ、転職活動にも、ベーシストとして次のライブに向けても、その意欲を示していらした。現在、私(大舘)の実父も同種の治療をしているだけに、言葉もない。
スタジオ楽音と永井チーフには、長きにわたり、たいへんお世話になった。前述のように、コンテストイベントや、学校の文化祭などには、時間が許す限り応援に駆けつけてくださり、部員の進歩・成長を喜んでくださった。
また、私がまじめに顧問業に取り組む以前は、私以上に部員のことを見てくださっていたことは間違いない。当時の部員は――といえば、学校の第2音楽室では少年ジャンプを読み耽り、駄弁に興じ、下校時刻を過ぎると楽音に赴き「さあ練習するか」といった感じであった。
また、やれ文化祭だ、発表会だ、合同ライブだ、とあるたびに、個人経営の街のリハスタであるのをいいことに、「朝6時に開けろ」「いや、朝5時に開けろ」と頼み込み、そんなわがままにも全て応えていただいた。練習の無理がたたり、本番のプレッシャーに耐えかねて、スタジオで倒れ込んでしまう部員が…なんていうエピソードも、そんなに前のことではない。
部活のCDを持っていけば、スタジオでかけてくださり、その出来栄えにいろいろ感想を寄せてくださったし、新入生入部の折には、20人内外の部員を楽音に行かせ、とりあえず会員登録をする、というのが部活の通過儀礼であった。
私がまじめに顧問業をやるに比して、校内の練習を重視するようになり、本校からの「客足」は激減したものと思う。「学校とか世代を超えた音楽サロン」としての街のリハスタの機能を信じておられた氏にしてみれば、寂しくもどかしい気持ちだったに違いない。それでもやっぱり、いつでも本校部員を可愛がってくださったことには、今さらながらここに感謝の意を伝えたい。
たいへんな愛妻家でいらしたようで、ご遺族の皆様は、さぞやお寂しい思いをなさっているに違いない。若輩の私がいうのもなんだが、まだまだお若く、活力と慈愛に溢れた氏が、こうして鬼籍に入ってしまったことは、本当に無念でならない。
こんな駄文を添えて、ここに謹んで哀悼の意を表し、故人のご冥福をお祈り申し上げたい。
コメント