(1)「学校の部活動」ということ「表現する」ということ
いわゆる「軽音楽部」としての理想的な部活動の在り方について、さまざまな示唆を与えてくれた他校の顧問の先生がいます。その先生が「軽音楽部は何もロックスピリットを教えるための部活ではない」と仰っていて、長らくそこに共感し、自分の軸としてきました。すなわち、「学校は規律を教えるところなのだから、ロックスピリット(=反抗・反社会・反秩序)を教えていては矛盾が生じる。」ということです。
「ロックスピリット」は「パンクスピリット」と表現すると、より音楽史的には分かりやすくなるのですが、それはつまり「大きなものへの反抗心」であったり、「反社会的・反秩序的なメッセージ」であったりします。
しかし、今夏の大会に一区切りがついたこのタイミングで、この認識に修正を加えたい。あるいはこの認識を掘り下げたいと思います。
そうです。たしかに、教育活動の一環たる部活動なのだから、夜の校舎窓ガラス割って歩くことを賛美するわけにはいきません。困ります。
ただ、同時に考えたいのは、僕らが表現活動を行う部活だという点です。
表現(アート)には「様式美」と「脱様式美」の2種類があると思います。
様式(型)をなぞってあげて、その様式(型)を期待している人を気持ちよくさせてあげる――これも「様式美」としてアートです。Ⅳ-Ⅴ-Ⅲ~ときたら、次には「Ⅵ」が来てほしいものです。そうした期待に添って「Ⅵ」を繰り出してあげること、そこに聴衆は心地よさを覚えます。規律を重んじる学校的価値観からすれば、こうした型を大事にしたい。
その一方で、古今東西の芸術家は、型を踏襲することを潔しとせず、「それを乗り越えるからこその芸術」であるとして、様々な表現を試みてきました。それは破壊的な行為であり、校舎の窓ガラスは破壊しないけれど、既存の価値観(型)の破壊であることは間違いありません。
型をなぞることと、その型の乗り越えを目指すこと、どちらがより高次であるかと言えば、それは間違いなく後者です。その意味で、中杉音楽部としては、より高次の表現を目指したい。
「部活動なんだからロック(反社会・反秩序)である必要はないでしょ?」
には一定の同意はしつつも、
「表現活動を行う(学校教育の一環としての)部活動なんだから、型にはまらずに、より高次の表現を目指すべく、様々な表現の可能性を探る営為を推奨する」
ということを今後の指導方針として確認したいと思います。
(2)「高校生らしさ」とは何か
表現が表現であるためには、受け取る側のことが念頭に置かれていなければなりません。もしも、「表現」のふりをしながら、受け取り手を無視して、自ら出す音・出す歌・出す言葉に自身が耽(ふけ)るようなことがあれば、受け取り手は不快に感じます。
学校の先生をやっていると、こういう不快感に出くわします。(本校の場合は「たまに」出くわすだけで済みますが、学校によっては「しばしば」出くわすのかもしれません。)――目の前に、何か注意なり指導なりを与えたい生徒がいる。その生徒に声をかけて、もし彼/彼女が反抗的につっかかってくるなら、それはある種のコミュニケーションです。注意をした私(先生)の存在自体は認められています。不快なのは、そうして声をかけたのに、その「声」や「私自身の存在」が全く存在しないかのように「スルー」される場合です。いると分かっているのにいないかのように見なされることには、自らの尊厳をかけて怒りを覚えるのが当然です。
音楽にはカタルシス(自浄)作用がありますから、時として目の前に人がいようがいまいが奏でている(歌っている)自分自身が心地よいことがあります。自室やスタジオに籠って気持ちよくなっていること自体は何ら否定されることではありませんが、いざ人前で表現するとなると話は別です。もし聞き手がいるのに、自分のために演奏がなされていたら、聞き手にしてみれば「無視するなよ」と言われても当然です。
(今夏、他県の審査で「あなたがやっていることはマスターベーションも同然だ」とのコメントがなされたと聞きますが、それはつまり、「聞き手が目の前にいるのに、自分のためだけに演るなよ。こっちを無視すんなよ。」という意味です。その審査員の気持ちは分かります。ただし、それを「マスターベーション」と表現することは罵倒でしかないですから、いくら腹が立ったとはいえ、良い大人が高校生を罵倒するのは、いかがなものかと思います。)
以上、ダラダラと書いたことは、一言で言ってしまえば「表現とは相手のいるものだ」ということに尽きます。
高校生対象のバンドコンテストで表現する時の相手は、同世代の高校生であり、(多く)オジサンの審査員です。審査員のオジサンを聞き手として想定し、その人たちの共感を得ようとして、オトナの世界を表現しようとすると、「あなたたち高校生はその世界を知らないでしょう?」ということになる。あるいは、「その世界は同世代の高校生とは共有できない(目の前の高校生を無視した)ものでしょう?」ということかもしれません。そしてそれは、「高校生らしくない」という言葉で処理されます。
逆に、だからこそ、拙い演奏で、舌足らずで青臭い言葉で表現されたものが「高校生らしい」ということで共感を得ることにもなります。オジサンたちが「この“高校生らしい”表現に、聞き手の高校生はリアルを感じて共感しているにちがいない!」と思えばそれは高評価につながります。(あるいは、「この表現は、自分が高校生の時なら間違いなく共感できた!」ということかもしれません。)
ただし、聞き手が期待している「高校生らしさ」に答えてあげようと表現するだけならば、それは前述の「様式美」に過ぎません。中杉音楽部であれば、狙って「高校生らしい」ものを作ることは出来るでしょう。でもそんなの、全然アートではないし、ロックではない。(※ここで言う「ロック」は「反社会」という意味での「ロック」ではなく、「秩序の乗り越え」という意味での「ロック」です。)常にオジサン相手に表現することを想定しているならともかく、そうでないのなら――想定している聞き手の中心が同世代の高校生なのだとしたら――その高校生の「あるある」に応える様式美ではなく、高校生の価値観とか既成概念とかそういうものに揺さぶりをかけにいく表現でありたい。そしてそれをやるためには、様々な表現手段(=テクニック)も要る。
君たちの音楽表現の聞き手は、校長先生でも教育委員会のえらい人でも審査員のオジサンでもない。君たち自身がターゲットと考える人たちでいいのだ。
(補足すると、ターゲットは「聴『衆』」であるべきだとは思います。もしターゲットが自分の恋人で「キミのために歌うよ」ということであれば、それを聞かされる非恋人たる聴衆は「俺たちは無視かよ!」ということになるので。しかし、「この恋人への想いって(聴衆の)みんなにも共感してもらえるはずだよね!」という表現であれば問題ないわけです。)
(3)なぜ様式美にとどまっていてはいけないのか?
時代はますます「二極化」「格差社会」の様相を呈しています。使い古された比喩で言えば、「歯車」に過ぎない人なのか、「エンジン」になれる人なのか、によって人生は大きく左右されます。私は中大杉並高校の教員の端くれとして、本校の生徒は「歯車」であってほしくはないですし、まあ最低でも「潤滑油」、そして願わくば「エンジン」になっていって欲しいと願っています。そして、それだけの資質をもった人たちが集まっていて、その資質をいっそう伸ばすための手助けをしているのが、中大杉並高校であると信じています。
歯車は、形や大きさが合わなければ必要とされなくなります。そして、形や大きささえ合っていれば、常に交換可能です。歯車である以上、「他の誰でもないあなた」である必要はないのです。そもそも誰かに必要とされない限り存在意義さえありません。「様式美にとどまること」「『高校生らしさ』の再生産」は、「歯車」的人間の再生産でしかありません。
中杉音楽部での活動を通じて、その乗り越えを企図すること、それはとりもなおさず、自らを動力(=エンジン)として、「共感の得るための表現」を模索したり「既存の型に囚われないチャレンジ」したりすることを通じて、多様な価値観が交錯するポスト平成の時代をサバイブするためのトレーニングなのです。
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